小津安二郎の映画音楽

小津安二郎は映画音楽に対し、独特の考え方を持っていました。その鍵を握る人物、作曲家斎藤高順の作品と生涯についてご紹介します。

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小津監督生誕110年記念デジタル・リマスター盤

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デジタル・リマスター盤オリジナル・サウンドトラックは、小津監督の生誕110年を記念して、映像のニューデジタルリマスター版として順次発売される「東京物語」「彼岸花」「お早よう」「秋日和」「秋刀魚の味」の5作品を収録した映画音楽集である。

この映画音楽集は、ニューデジタルリマスター映像から修復した音声、現存する音楽マスターテープより収録した音声、オリジナルフィルムの音声の3種類を聴き比べることができる。

メインタイトル以外は、普段なかなか耳にする機会がない劇伴が収録されており、これらの音楽に触れると自然に小津映画のワンシーンや俳優たちの姿が目に浮かんでくるようだ。

映像なしで劇伴だけを聴くなど普段はないことだが、改めて聴いてみると同じような音楽に若干アレンジを加えたような曲が多く、これは作曲家が手抜きをしたわけではなく、小津監督の好みを忠実に反映した結果なのだろうと思う。

収録曲の中では、やはり「お早よう」だけが異色な感じがする。
「お早よう」は他の小津作品に比べると喜劇色が強く、腕白盛りの子供が中心に描かれており、音楽に斎藤高順ではなく黛敏郎を起用した理由が何となく理解できる。

ここでも、黛を抜擢したのは小津ではなく吉沢博だった。
吉沢による黛の起用は、見事に功を奏したと言えるのではないだろうか。

しかし、ここには収録されていないが、黛は「小早川家の秋」で再度音楽を担当するが、冒頭からいきなりジャズが流れてきたり、ちょっと黛の個性が前面に出過ぎてしまった感が否めなかった。

やはり、小津好みの「いつも天気のいい音楽」は斎藤にしか書けなかったのだ。
悲しいシーンには悲しい音楽、楽しいシーンには楽しい音楽を付けるのではなく、太陽の光が万人に降り注ぐように、神のごとき眼差しで人間の内側を見つめ続けた小津が望んだ音楽は、感情に訴えるのではなく心に届く音楽ということだったのかも知れない。

片山杜秀氏は、斎藤の音楽を次のような言葉で賞賛している。
「小津と斎藤のコンビは、フェリーニとロータや、ゴジラと伊福部や、トリュフォーとドルリューにも匹敵する」
(「レコード芸術 2007年2月号」より)

世界中の映画監督や批評家から今も絶大な評価を得ている小津映画だが、音楽のことが話題に上ることは決して多くはない。
しかし、小津映画の音楽は映像と共に作品の価値を高め、日本人の品格を示す役割を十分に果たしているのではないだろうか。

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小津映画の音に於ける影の功労者

ようやく、BFI(英国映画協会)が運営するWebサイトの『Tokyo Monogatari』に関する記載ミスが訂正された。
新たに『Takanobu Saito Filmography』のページが追加され、やっと父の仕事が正しく掲載されるに至った。
松竹からBFIへ連絡が行ってから一ヶ月以上の時間を要したが、取りあえず一安心というところである。

幸い母の一周忌にも間に合い、法事の席では親戚や父の墓前へも良い報告ができた。
また、少し前から吉沢博のことがどうも気になるようになってきた。
吉沢博は、母方の祖母の弟にあたるが、父を小津安二郎へ推薦した張本人でもある。

吉沢は私にとっても親戚に当たるわけだが、生前ほとんど交流がなかったためどのような人物であったのか皆目分からない。
唯一覚えているのが、美空ひばり邸が近隣に立ち並ぶような渋谷の高級住宅地に、庭にプールのある立派な邸宅を構えていたことくらいだ。
元々麻布にあった住居の敷地が首都高速の建設予定地にかかるため立ち退きを余儀なくされ、その時の立ち退き料で渋谷の一等地に新居を建てたらしいという話を聞いた覚えがある。
ただ、父の回想録によると天才的な音楽家であり、小津映画の効果音や映画音楽全般に亘り絶大な力を持っていたことだけは確かである。

最近、『小津安二郎と東京物語』貴田庄著、『東京物語と小津安二郎』梶村啓二著という二冊の本を読んだが、吉沢博のことは特に触れられていなかった。
これらの書物に限らず、小津関連の書籍、雑誌の類には、まずほとんど吉沢博の名前が登場することはないのではないか。

ちょうど良い機会だったので、法事の際に親戚に吉沢のことを色々尋ねてみることができた。
父の回想録や親戚の話などを総合してみると、吉沢が小津映画に及ぼしたであろう影響は決して小さいものではないことが分かってきた。

小津はサイレントの頃より名匠と呼ばれ、独特の撮影スタイルを確立していったが、トーキー以降の効果音や映画音楽の扱いに関して確固たる理想は持てずにいたのではないだろうか。
完璧主義者であった小津の弱点は、音楽や効果音の扱い方であった可能性が考えられる。
その小津に欠落していた部分を補っていたのが吉沢だったのである。
それを如実に物語る逸話として、斎藤高順は回想録の中で次のように述べている。


小津監督は音に関しては、吉沢さんを徹頭徹尾信頼していて、ほとんど言いなりという感じでした。
作曲家の人選、音楽制作の実務、録音の指揮は当然のこと、映画の音作り全般に吉沢さんの発言力は絶大でした。
たとえば、映画のシーンの中で聴こえてくる色々な音楽や効果音。
『秋日和』だったら、モーツァルトのピアノソナタを練習している音がどこからともなく聴こえてくるとか、シーンのつなぎにポンポン蒸気の音がするとか…。
これらを実際に決めていたのは、すべて吉沢さんなのです。
ダビングのとき、吉沢さんが小津監督に付いて「ここはポンポン蒸気ね。」とか、「歌の練習をしている人が、近所にいることにしよう。」とか、「まだピアノを習いたての子供が、つっかえつっかえバイエルをさらっているのがいい。」とかを録音の妹尾芳三郎さんに言うと、小津監督が「この音、なかなかいいねえ、なかなか合ってるねえ…」と喜ぶ、いつもそんな感じでした。


吉沢博は、明治41年茨城県水戸の出身であった。
小津よりは5歳ほど年下である。
武蔵野音楽大学を卒業後、松竹歌劇団の音楽担当を務め、終戦後まもなく大船撮影所へ移動となった。
以降、主に松竹と日活の映画音楽の指揮者として約3,000本の作品に携わり、映画音楽の録音現場において「神様」と呼ばれるほどの才能を発揮した。

興味深いのは、斎藤高順という無名の作曲家を発掘し小津へ紹介したばかりでなく、自身の姪との縁談話まで成立させてしまったことだ。
こうして小津映画の作曲家を身内に引き入れた吉沢は、映画の音作り全般を完全に掌握した上で、小津芸術を音という側面から強力に支援したと言えるのではないだろうか。

斎藤高順と同様、吉沢博という音楽家を、小津映画を語る上では決して忘れてはならない偉大な存在であったと記しておきたい。

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『サイト・アンド・サウンド』の重大なミステイク

英国映画協会(BFI)が発行している『サイト・アンド・サウンド』(Sight & Sound)という映画専門誌がある。
『サイト・アンド・サウンド』誌は、1952年より10年に一度、過去に公開された全映画作品のランキング(THE GREATEST FILMS OF ALL TIME)を発表しており、このランキングは世界で最も権威があり信頼性が高いものと言われている。

直近では、2012年9月号(2012年8月発行)に批評家846人による "THE TOP 100 FILMS"、映画監督358人による "Top ten films" のランキングに関する記事が掲載されている。

今回、いつも欧米作品が上位を占めるランキングに異変が起きた。
小津安二郎の『東京物語』が "THE TOP 100 FILMS" で第3位、"Top ten films" では第1位に選ばれたのである。
これまでにも、溝口健二の『雨月物語』、黒澤明の『七人の侍』がランキング上位に登場したことはあったが、日本映画がこれほど高く評価されたことは過去にはなかった。

また、"TOP 25 DIRECTORS" では小津安二郎は第4位となっており、ヒッチコックやゴダール、オーソン・ウェルズらと肩を並べる世界の巨匠と目されている。
このニュースは各新聞にも取り上げられたが、あまり大きな扱いではなかったので見落としてしまった人も多いのではないだろうか。

実は私も完全に見落としてしまい、最近になってネット上の記事から知ることとなった。
これは大変な快挙であり、小津映画関係者にとってはとても誇りに思えるような出来事である。

『東京物語』が世界一の映画に選ばれた。
『東京物語』の映画音楽が世界中の人々の耳に届き、亡父(斎藤高順)の名前も世界に広く知れ渡るようになるに違いない。

「オヤジさん、凄いよ!」
この喜びを父に伝えたい。そう心に強く願っていたところ、父が夢に現れた。

「オヤジさん、やったよ。『東京物語』が世界一の映画に選ばれたよ。オヤジさんは世界一の音楽家だよ、おめでとう!」
私は夢の中の父に向かってそのように告げた。

ところが、夢の中の父は無表情のまま何も話さず、表情もどこか冴えなかった。
何だろう? 何か言いたいことがあるのかな?

目が覚めてからも何か引っかかるものがあった。
『サイト・アンド・サウンド』という言葉がどうも気になる。

そうだ、イギリスの "Sight & Sound" のWebサイトを見てみよう、何か父に関する記事が出ているかも知れない。
そう考え、"sight & sound tokyo monogatari" と検索してみた。
すぐに、BFI(British Film Institute)のホームページから "Tokyo Monogatari" の記事へ辿りつくことができた。

"Cast & Credits" のリンクをクリックし、"Music" を探し出した。
Music Ichiro Saito

Ichiro Saito ?

じぇじぇじぇっ!!

父の名前は、斎藤高順である。
ローマ字表記は Takanobu Saito である。

高順を Takanobu とは日本人でもなかなか読めないと思う。
Kojun と呼ぶ人もいたし、外国のサイトでは "Kojun Saito" と紹介されている場合もある。

しかし、"Ichiro Saito" は全くの別人である。
これは完全なるミステイクである。
大問題である!

そうか、父はこれを伝えたかったのか・・・。
このとき初めて、父が夢に現れた理由が分かった。

さらに調べてみると、『東京物語』以外の作品も、父が手掛けたものは全て "Ichiro Saito" になっていた。
何故このような間違いが起こり、放置されたままになっているのか全く理解できない。

よりによって、世界で最も歴史があり権威のあるBFIが運営するWebサイト上で、このように有り得ない間違いが犯されているとは・・・。
世界中の映画ファンが参考にするであろうWebサイトだけに、ショックであり残念な気持ちで一杯である。

とにかく、急いでBFIへ連絡しなくてはならないが、中学生レベルの英語力しかない私が問い合わせても無理があるので、JASRACと松竹へ連絡してみることにした。
どちらからもすぐに返答があり、誤りの事実は確認できたのでこれから先方へ問い合わせてみる、とのことであった。

あれから一ヶ月ほど経つが、まだWebサイトは間違ったままだし、どのような状況なのかの報告も来ていない。
このままウヤムヤになることはないと思うが・・・。

父が再び夢に現れる前に、なんとか手を打たなければならない。

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小津安二郎 幻の遺作その1 『青春放課後』

『青春放課後』は、1963年(昭和38年)3月21日の放送記念日特集として、NHK総合テレビで午後8時から9時30分までの90分枠で放映されたテレビドラマである。
当時は録画技術が発達していなかったため残存していないと思われていたが、2013年(平成25年)NHKに映像が残っていることが分かり、デジタル化を行い同年10月14日にNHK BSプレミアムで約50年ぶりに放映されることになった。

このテレビドラマこそ、小津安二郎の最後の仕事であった。
『秋刀魚の味』完成後より、妙な疲れを感じていた小津だったが、1963年の新年は野田高梧夫妻、池田忠雄とともに蓼科で迎えた。
すでに、新作『大根と人参』の打ち合わせのため、『長屋紳士録』以来実に16年ぶりに池田も加えた布陣で、マンネリ打開を果たそうとしていた。
そこへ、NHKのプロデューサー山内大輔から、急な仕事の依頼が舞い込んだ。

山内大輔は作家里見弴の三男であり、『青春放課後』の企画制作担当だった。
小津は、若い頃から里見文学の愛読者だった。
トーキー以降は会話表現の達人である里見の小説から多くのヒントを得てきたが、『彼岸花』と『秋日和』では里見の原作を元に野田と小津がシナリオを書くというスタイルを確立した。
晩年最も敬愛していた里見惇の息子の頼みであり、里見との共同脚本でもある『青春放課後』の依頼を快諾したことは間違いないだろう。

小津は、1月10日には『大根と人参』の打ち合わせを中断し、北鎌倉の自宅へ戻ることにした。
『青春放課後』の執筆は、それから3月14日に蓼科へ戻るまでの間の仕事であった。
小津の日記によると、原稿完成までは不眠不休のような過酷なスケジュールの中、必死で頑張り抜いたようだ。
それでも、脚本が遅れに遅れ、完成したのはビデオ録画の前日だったそうだ。
映画生活40年の小津も「締め切りのある仕事はこれがはじめて。この年になって、徹夜させられたからね。」とニガ笑いしていたという。
脱稿したのはもう夜中を過ぎていたが、里見はしきりに疲れを訴える小津の頚部を指で触ってみると百円銀貨くらいの瘤がはっきりと確認でき、これがもし癌ならば…と嫌な予感がしたそうである。

蓼科へ戻った小津は、『大根と人参』の打ち合わせを進めるさなか、『青春放課後』のテレビ放送をそこで観ることになった。
しかし、頚部の異常が日に日に増したため、3月27日には下山し、4月10日に国立がんセンターへ入院した。
それ以降、小津の体調は二度と回復することはなく、その年の12月12日に帰らぬ人となった。




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小津安二郎 幻の遺作その2 『大根と人参』

小津は『秋刀魚の味』のあと、次回作として『大根と人参』を予定していた。
小津と野田の構想の中では、すでに主な配役が決まっていた。

初老の会社員役に笠智衆、細君は三宅邦子、息子が吉田輝雄。
笠の旧制高校以来の友人役に佐分利信、その細君は田中絹代、娘が岩下志麻。
二人は無二の親友であり、細君同士も親戚同様の付き合いをしているという設定である。
さらに、お節介な同窓生役として中村伸郎が登場し、親友二人の息子と娘に縁談話を持ちかける。
また、医者になった同窓生役に北竜二、とここまではお馴染みの俳優たちがいつもの小津映画を演じるはずであった。

目新しい点としては、『東京暮色』以来の起用となる信欣三が、癌に冒された同窓の友人役として登場する。
信欣三の癌を診断するのが北竜二で、それを本人へ伝えるべきか否かで笠と佐分利が仲違いをしてしまう。
ところが、細君同士は二人の喧嘩は放っておいて、息子と娘の結婚の支度を進め、とうとう子供たちの結婚式までこぎ着けるというストーリーである。

当時から癌は身近な病気と認識されており、同窓生のひとりが癌を患うという話はリアリティがあったのだろう。
それにしても、小津本人が末期の癌に冒されていたとは、運命の皮肉としか言いようがなかった。
『青春放課後』の執筆を終えた小津は、翌日には蓼科へ戻り『大根と人参』の打ち合わせを再開した。
しかし、頚部の疾患は小津の肉体を蝕み続けた。
とうとう小津と野田は、『大根と人参』の執筆継続を断念せざるを得なくなった。

その後、『大根と人参』の脚本は渋谷実と白坂依志夫へ引き継がれ、1965年に渋谷監督版の『大根と人参』が公開された。
松竹は小津安二郎の記念映画として、人気スターを20人も登場させるなど派手な宣伝に打って出た。
だが、残念ながら小津映画らしさとは無関係な作品となってしまったようだ。


大根と人参ポスター

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山田洋次監督 小津安二郎監督を語る (2002年1月15日)

山田洋次監督

若い頃、ぼくは変な映画だと思いましたね。たいして面白くもない、とても妙な映画でした。

小津さんの映画がどういうふうに奇妙かというと、それは独特のカメラポジションとか、パンがないとか、移動がないとかいろいろあるけど、要するに何ていうか、激しい感情の表現がまるでないってことですね。俳優が大声でゲタゲタ笑うとか、大声で泣くとか、怒って叫ぶとか、そういうことが一切ない映画なんですね。長口舌もふるいません。一人の俳優が一度にしゃべるせりふの量が決まってるんです。長いせりふをダーッとしゃべるなんてことはやらない。それから大事件が起きない。アメリカの映画なんか地球が滅ぶというような大事件までSFXでやるんだけども、小津さんの場合はほんのちょっとした波風、小津さんにいわせればドラマでなくってアヤだっていうんだけど、まさしく人生のアヤだけで映画をつくってる。

若者にとっては到底受け入れることができないというのは当り前です。若いのに小津さんの映画がいいというのは、よほどひねこびた奴ですね。それが年とると分かってくる。ぼくもそうでした。監督になって、ある年齢になってくると、すごいなこの人の個性はと思うようになってきた。

たんたんたる人の暮らしのちょっとしたエピソードを捉えて、人間全体を描こうとしているのかな。人生、社会までそこに浮かび出てくるっていうか。そこのところが小津さんの映画の偉大さじゃないでしょうか。小津さんの視点はピシッと決まっていて、とても細い穴のようなところから人間を見るんだけど、実は微細なくらしのアヤを描きつつ、全体がそこに出てくる。そこに映画を見る歓びを観客は感じるようになる。

『タイタニック』のように巨大な船が傾いて沈没する、乗客はどうやって死んでいくか、それを全部写しちゃうみたいなことで喜んでるっていうのは、ぼくはある意味で映画の衰弱だと思います。おそらく小津さんは、あの映画を見たら笑い出すんじゃないでしょうか。あれで人間が何もかも描けたと思うのは間違いだと思いますよ。登場人物が何百人いたって、実はあまり人間は描けてないってこともあるわけで、『タイタニック』が人生や社会をちゃんと描けてるかというと描けてないと思う。小津さんは細部を描きながら全体を描くことがができた希有な人なんでしょうね。

「巨匠たちの風景」(伊勢文化舎)より引用

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小津安二郎のスケッチブック

探しものがやっと見つかりました。
確か、だいぶ以前に見たはずなんですが、一体どこへしまい込んでしまったのか・・・。

それは、小津さんがスケッチブック、葉書、色紙などに描いた絵と文字を集めたものでした。
残念ながらオリジナルではありませんが、面白そうなものを抜粋した画集のようです。

印刷して販売していたものなんでしょうか?
ちょっとよく分かりませんが・・・。

スキャンしてPDFデータにしてみました。
以下よりご覧いただけます。




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「天気のいい音楽」と「空気のような音楽」

山田洋次監督は、敬愛する小津安二郎監督の名作「東京物語」へのオマージュを込めて「東京家族」を製作しました。
「東京家族」は2013年1月に公開されましたが、2013年という年は山田監督自身の監督生活50周年目であり、小津監督没後50年目にあたる年でもあります。

山田監督は、この記念すべき映画の音楽を久石譲に依頼しました。
久石といえば、宮崎駿監督や北野武監督の作品をはじめ、数多くの映画音楽を手がけてきた第一人者です。

久石にはドラマチックでメロディアスな楽曲を聴かせる音楽家という印象がありますが、そんな久石に対して山田監督は「空気のような音楽をお願いします。」とリクエストしたといいます。
これは、かつて小津安二郎が斎藤高順に「天気のいい音楽」を求めたことへのひとつのチャレンジではなかったでしょうか。

山田監督は、「キャメラがいい、音楽がいい、演出がいいというだけでは「東京物語」のような名作にはならない。それらが全体でアンサンブルを奏で、観客にイマジネーションを抱かせないといけない。そういう意味では演技も演出も、そして音楽も空気のようなものでないといけない。」と持論を述べたそうです。

久石は山田監督の考えに深く共鳴し、久石自身の思いを次のように語りました。
「映画や音楽を単なる情報として捉えてしまうと、情報を得ることで物事が分かったような勘違いをしてしまう。この情報という考え方が映画の世界を貧しくし、全てのショットが情感や香りを持っていないといけないのに、最近の安っぽいドラマは情報だけで成り立っている。ただ画面をなぞっているだけの音楽が多すぎるし、特にハリウッド映画などは効果音の延長でしかなく、観客を愚弄しているのかとさえ思ってしまう。」と映画音楽の現状に批判的な言葉を並べました。

また、山田監督はかつて黒澤明監督がジョージ・ルーカスに招待され、「スターウォーズ」を鑑賞したときのエピソードを披露しました。
ルーカスに意見を求められた黒澤監督は、強い口調で『音楽が多すぎる!』と言ったらしいのですが、それを聞いたルーカスはすっかり意気消沈してしまい目に涙を浮かべたそうです。

「スターウォーズ」の音楽といえば、言うまでもなくアメリカを代表する巨匠ジョン・ウィリアムズの傑作です。
それにダメ出しをしてしまう黒澤監督にも驚かされますが、小津監督と共に日本映画の黄金期を築いた名監督同士ですから、映画音楽に対する認識にも何か相通じるものがあったのかも知れません。

かつて小津安二郎と斎藤高順との間で交わされたような対話が、60年後に山田洋次と久石譲との間でも行なわれていたことは大変興味深いことです。
「東京物語」の「天気のいい音楽」が、60年の歳月を経て「東京家族」では「空気のような音楽」として観客を魅了することになったのです。
「東京家族」の音楽は、久石らしさを随所に感じさせながらも、山田監督が求めた「空気のような音楽」を見事に表現していたのではないでしょうか。


東京家族 DVD

 
  
 




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「日本の作曲家と吹奏楽の世界」より

著者の福田滋氏は、陸上自衛隊中央音楽隊でユーフォニアム奏者兼チーフ・ライブラリアンを務める現役の自衛官です。
その一方、地元埼玉で幅広い音楽活動を展開する傍ら、月刊誌「バンドジャーナル」の連載を受け持ち、作曲家や遺族への丹念な取材・執筆活動を行っています。
それらの集大成ともいえるのが「日本の作曲家と吹奏楽の世界」です。
同書より「齋藤高順 ポルカからマーチ、あざやかな転身」を以下に掲載します。





※PDFをFLASHに変換しており、少々読みづらい部分があるので、OCRでテキストデータを抽出しました。OCR変換のため、誤字脱字が含まれている可能性があります。以下をご参照ください。


齋藤高順 ポルカからマーチ、あざやかな転身
福田 滋(陸上自衛隊中央音楽隊チーフ・ライブラリアン)

スタンダードが演奏できない
 我が国ではテレビ番組などの影響もあり、演奏して楽しむ吹奏楽の人気はまさにブームといっていい。毎年新しいオリジナル作品やヒット曲の編曲物が湯水のように生み出されている楽譜天国だ。しかしながら過去の名作を演奏しようとすると少し困ることになる。演奏に必要な楽譜が手に入らないのだ。出版社は在庫を抱えるリスクを回避し、版権の問題が再販を阻み、以前に出版されていた楽譜も現在ではほとんどが演奏出来ないのが現状。レンタル楽譜が持てはやされるのもうなずける。しかし、この状況を良しとしない気運が高まってきていて、今回、要望の強い齋藤高順作品のいくつかが再出版されることになった。ファンとしても研究家にとっても大変喜ばしいことである。

懐かしい名曲の復刻
 再び我々の元に帰ってくるのは、課題曲として人気のあった《輝く銀嶺》(七一年)と《オーバー・ザ・ギャラクシー》(八〇年)、そして氏の代表作《ブルー・インパルス》[注1]というラインナップ。また齋藤の代名詞といえる小津安二郎監督の映画音楽から《東京物語》《彼岸花》《秋刀魚の味》という三作品も作曲者自身の編曲で出版されることになった[注2]。

音楽学校から軍楽隊へ
 斎藤は、太平洋戦争最中の四三年に東京音楽学校(現・東京芸術大学)へ入学、翌四四年には学生であっても適齢者はすべて兵隊にとられることになっていた。そんな時期、音楽学校の乗杉校長が、「学徒動員で狩り出されるなら、むしろ音楽技術を以って戦争協力させたい」と陸軍軍楽隊長の山口常光[注3]に直接相談、すると山口は「軍楽隊の質が上がるから大賛成」と阿南陸軍大臣に直訴、運よく生徒は音楽学校に籍を置いたまま軍楽隊に入隊できることになった。四四年十月に音楽学校の学生十四人が入隊、軍楽隊の楽器が未経験の齋藤は突然アルト・サクソフォンを持たされる。軍楽隊の厳しいレッスンのお陰で数ヶ月後には軍楽隊のメンバーとして立派な演奏ができるようになっていた。生徒期間が終わった齋藤に幸運が訪れる。作曲科出身の芥川、奥村、團と齋藤の4人は他の作業を中止して作曲作業に専念すべし、との命令が下った。それからは召集で来ていた作曲家の諸井三郎少尉の指導で、行進曲や部隊の歌などの作曲・編曲に明け暮れた。これはその後のために大変に勉強になったそうだ。しかし、その後約二ヶ月で終戦となり軍楽隊は解散。齋藤は「ここでずっと、一生の仕事として作曲と吹奏楽ができたのに・・・」と当時を述懐している。

一人立ち、そして転身
 その後、齋藤氏はNHKや民間放送の音楽や映画音楽[注4]の作曲を続けるが《輝く栄冠》という行進曲を作曲・出版した縁でJBA(日本吹奏楽指導者協会)のアメリカ吹奏楽視察旅行(六七年)に誘われる。視察団長は、かつて軍楽隊長であった山口氏であり、そこで当時警視庁音楽隊長の松本秀喜を紹介される。松本氏は陸軍軍楽隊出身で初代航空音楽隊長を務めた人物で、この後齋藤の人生に大きく関わってくることになる。

航空音楽隊長就任から警視庁音楽隊長時代
 七〇年、大阪で開催された日本万国博覧会で「みどり館アストロラマ(全天全周映画)」の音楽《前進》を作曲、巨大スクリーンに航空自衛隊音楽隊が登場する。その時の出会いと松本氏の勧めで、航空音楽隊の隊長(七二~七六)として赴任する。航空音楽隊長時代は《オンリー・ワン・アース》、《自然への回帰》、《銀翼》など充実した作品を残した。その後更に松本隊長の後任として警視庁音楽隊長(七六~八六)として勤務。今度は「水曜コンサート」のために行進曲や独奏曲などの小品を多数作曲した。

人間・齋藤高順、その人柄
 「結婚生活四十八年、四男一女の五人の子供が居りますが、主人が子供を怒った姿を見た事がございません。勿論、私とも喧嘩らしい喧嘩をした記憶もございません。航空音楽隊の後、警視庁音楽隊へ行きそこで病に冒されることになりましたが、愚痴も言わない人でした。その後、再び病に冒されますが、それでも家族に心配をかけるようなことはなく、本当に感謝しています。」と園子夫人は笑顔で語ってくれた。
 晩年、私はご自宅に通わせていただいたが、神様のような存在の齋藤先生はいつも優しい言葉で丁寧に様々なことを教えてくださった。最後にお会いしたのは、お亡くなりになる数週間前のことであるが、辞去する際「いつも、いろいろとありがとう」と手を差し伸べていただき、握った手のぬくもりが今も忘れられない。

[注1]氏の代表作として知られるこの曲は、航空音楽隊第十回定期演奏会(七〇年)の委嘱作品であり、ジェット・アクロバット・チーム“ブルー・インパルス”のために作曲されたもの。初演の時は、ステージ上でブルー・インパルスの隊長にスコアを贈るセレモニーの後に演奏に入った。曲は壮大な情景をボサノバのリズムとシンコペーションの多用で、今までのマーチの概念を破った作品として注目され、後にFM東京のフレッシュ・モーニングのテーマとして二年間にわたり放送され更に親しまれた。この作品、意外にも航空音楽隊長就任前のものであることは案外知られていない。

[注2]エイトカンパニィから販売楽譜として一二年に出版予定。《輝ぐ銀嶺》と《オーバー・ザ・ギャラクシー》《東京物語》など。

[注3]一八九四年長崎県生まれ。一九一二年陸軍戸山学校軍楽科(クラリネット)に入り、三〇年からフランス、ドイツに留学。四二年戸山学校軍楽隊長へ。戦後は皇宮奏楽隊長、NHK吹奏楽団長を経て四八年から五七年まで警視庁音楽隊長。六〇年相愛女子大学教授。七七年死去。

[注4]小津安二郎監督の映画『東京物語』(五三年)でデビューすると監督のお気に入り作曲家として、遺作となった「秋刀魚の味」(六二)まで音楽担当を担当し続けた。日本が世界に誇る映画監督の小津安二郎は、一九〇三年東京深川に生まれる。松竹キネマ蒲田撮影所に入社。以来、生涯五十四作品でメガホンをとり、サイレント、トーキー、モノクロ、カラーそれぞれの時代に匠としての芸術を焼き付ける。六三年、満六十歳の誕生日に死去。五八年紫綬褒章受章、五九年芸術院賞受賞、六二年芸術院会員。

[主要作品]
●吹奏楽(作曲)
《コンサート・マーチ“輝く栄冠”》六八年
《行進曲“希望のあした”》六七年
《式典曲“我等が栄光”》六七年
《行進曲“輝く銀嶺”》六七年課題曲
《行進曲“輝く前進”》六九年
《バンドのためのプレリュード“叫び”》六九年
《行進曲“ブルー・インパルス(青い衝撃)”》七〇年
《行進曲“フライング・エキスプレス”》七一年
《交響詩“オンリー・ワン・アース(かけがえのない地球)”》七二年
《交響詩“母なる海”》七三年
《自然への回帰》七三年
《式典曲“美と栄光”》七四年
《行進曲“銀翼”》七四年
《行進曲“ジャスト・ライダー”》七四年
《組曲“エメラルドの四季”》七四年
《クラリネットと吹奏楽のための“バラード”》七四年
《交響詩“空”》七五年
《郷愁の街“深川”》七六年
《バンドのためのメルヘン“マッチ売りの少女”》七七年
《行進曲“マンリーマン”》七八年
《ホルン四重奏とバンドのための行進曲“マーチング・エスカルゴ”》七八年
《ユーフォ二アム独奏とバンドのための“花のコンチェルト”》七八年
《テューバ独奏とバンドのための行進曲》七八年
《トロンボーン独奏とバンドのための“秋のロマンス”》七八年
《バンドのためのメディテイション“再会”》七九年
《行進曲“オーバー・ザ・ギャラクシー”》七九年課題曲
《行進曲“ビューティフル・トウキョウ”》八〇年
《行進曲“ウエンズデイト”》八一年
《バンドのためのインテルメッツォ“夢現”》八二年
《誇り高き雄姿》八五年
《バンドのためのコンチェルティーノ》
《行進曲“小笠原の海と空”》九三年
《バンドのためのファンタジー“永遠の輝き”水彩都市こうとう》九七年
●吹奏楽(編曲)
《映画『東京物語』より“主題と夜想曲”》
《映画『彼岸花』より“主題曲”》
《映画『秋刀魚の昧』より“主題曲とポルカ”》
●管弦楽・器楽曲
《室内管弦楽のための交響曲》五五年
《フルートと弦楽四重奏のためのソナタ》五二年
《クラリネットとヴァイオリン、ヴィオラ、チェロによる“四季”》五三年
《ヴァイオリン、ハープ、打楽器のための作品》五四年
《サクソフォン四重奏》五二年
●舞踏曲
《バレエ“大人の絵本”》五九年

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「月刊ぺんだこ 1985年2月号」より

落合武司氏は、往年のスマッシュヒットナンバー「恋人もいないのに」シモンズの作詞をはじめ、西城秀樹、杉田二郎、浅野ゆう子、大月みやこ、春日八郎等々…フォーク、ポップスから演歌まで幅広いジャンルの作詞を担当しました。
作詞以外にも、演劇の脚本・演出や執筆活動などマルチな活躍を続けています。
「月刊ぺんだこ 1985年2月号」より、落合武司氏のインタビューによる「小津安二郎さんの映像と私の音楽 斎藤高順」を以下に掲載します。





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小津安二郎さんの映像と私の音楽 斎藤高順
聞き手 落合武司

 放送のための音楽を書いていた斎藤さんにある日、映画音楽の仕事が舞い込んできた。小津安二郎監督作品「東京物語」だった。二十七歳の時だ。以後、名作大作の音楽を担当しつづける。小津作品では「東京物語」「早春」「東京着色」「彼岸花」「浮草」「秋日和」「秋刀魚の味」。田中絹代の監督二作目「月は上りぬ」をはじめ小津監画の助監督だった斎藤耕一監督の作品を手がける。他にも阿部豊監督「大阪の風」滝沢英輔監督「あじさいの歌」「どじょっこの歌」「さよならの季節」西河克巳監督「孤独の人」他、みずみずしい感性を発揮。小津安二郎の人と作品をつづった井上和男監督作品「生きてはみたけれど」が最近作。

落合 僕の母は働いていましたから、中学生なのに夜遅くなっても叱られないんですよね。それでよく映画を観て、セリフと音楽を覚えて夜更けの道で口づさみながら一人テクテク歩いて帰るのが楽しみでした。
斎藤 それは非常にいい環境だったんですね。
落合 そうですね、映画館と帰りの夜道で培われたものは大きかったし、それが僕の背骨になっています。それもつまらない映画は観たことがない、だから余計幸せでした。というのは、どういうわけか観る前にそれがいい映画かどうかが判ってた、本能的に。ですからベストテンが発表されると「あゝ、全部観た観た」ってなことでね。「チェッ」なんて舌うちして映画館を出たことなんてありませんでしたね。僕の体の中にはいい映画がいっぱい動いていますけれども、日本映画のベスト3を選べと言われたら木下恵介さんの「二十四の瞳」成瀬巳喜男さんの「浮雲」そして小津安二郎さんの「東京物語」なんですよね。小津さんの作品は「東京物語」以前のものから観てましたけど、特にあの作品に一番心を打たれましてね、小津映画の中ではドラマチックな要素が強かったせいもあるでしょうけどね。あの映画の帰り道、テーマミュージックをハミングしながら、泣き出しそうな気持で帰ったのを覚えています。その作曲家にお会い出来て光栄です。
斎藤 ありがとうございます。私は「東京物語」が小津さんの映画の曲を書いた最初なんですが、小津さんの作品だけではなく、はじめて映画音楽を受け持ったのが「東京物語」だったんです。
落合 大作から入られたというわけですねえ。
斎藤 そうなんです。だから小津さんもずいぶん思い切ったことをされたと思いますよ。
落合 そう、そこをお聞きしたいんです。どういうきっかけか、斎藤さんおいくつでいらっしゃったんですか?斎藤 私は昭和の年号と同じですから、二十七歳の時に知りあったということになります。
落合 二十七歳で、あの深い人生観照の映像に流れるあの音楽をねえ、びっくりしますねえ。どんなきっかけだったんですか?いきなり話が来たんですか?
斎藤 ええ、いきなりでした。
落合 へエー、それが判らない。
斎藤 それはちょっと判りませんよね。それまでは小津さんは伊藤宜二さんて方、あの方がレギュラーみたいになって音楽を書いていらっしゃったんですよね。
落合 「麦秋」なんかの作曲をされた方ですね。
斎藤 そうです。私は詳しいことは知りませんが意見の衝突で、小津さんの仕事をおろさせてもらったということを伊藤さんから聞いたことがあるんです。当時小津さんの作品に出ていた俳優さんは、何でも小津さんの言うことをきいたらしいのですが、伊藤さんはここはどうしても私の考えでやりたいと言ったことから、小津さんの機嫌を悪くしてしまったのだそうです。その後、斎藤一郎さんが一本だけやったんです。
落合 「お茶漬の味」ですね。
斎藤 ええ、ところがあの斎藤一郎さんという方は忙しい方でね、小津さんの映画は一本一年じっくりかかってやるでしょ、それで時間的に無理だということだったんですね。小津さんとしては自分の作品の音楽を担当してくれる人、しかも一生懸命やってくれる人というのを探していたんです。やりたいと思っていた人はいくらでもいたと僕は思いますよ。映画音楽の指揮をしている方で吉沢博さんとおっしゃる方がおられましてね、今でも映画の指揮をしていらっしゃいますが、その方から僕に声がかかったわけです。「東京物語」という映画の音楽を書いてみないかってね。
落合 当時、斎藤さんは何をなさっていたんですか?
斎藤 僕はラジオドラマの音楽やなんかをやっていて、映画はやったことがなかったし、小津さんが偉い人だか何だかも知らなかったんですよ。吉沢さんは、よく映画の監督さんから音楽の相談を受けていたらしいんです。私がやっていたNHKの学校放送や子供の時間の音楽なんかを放送で聴いて、それで私の曲の傾向と小津さんの作品とが合うのではないかとお思いになったようです。で急に話が進んだわけです。私にしたら、放送局の仕事というのは大して後に残りませんし、映画の仕事というものに大変な魅力があったわけです。
落合 当時映画は全盛ですからね。
斎藤 ええ、それとね、謝礼なんかでもね放送なんかでの謝礼の十本か二十本分が一度に来るんです。たとえばラジオで一本一万円だとしますと、イヤ、一万円もなかったかな?
落合 昭和二十七・八年ですからねえ。
斎藤 ええ、でもそんな時にでも早坂さんという映画音楽のベテランの方には百万円というお金が支払われていたという噂がありましたよ。
落合 あゝ、黒沢明監督の映画音楽を書かれた早坂文雄さんね。
斎藤 ええ。だからはじめて頼まれたって何十万くらいはもらえるんじゃないかと思いましてね。実際は何十万ももらえなくって十万にも満たない程でした。予告篇が一回やって一万円。
落合 最初だからですかしら。
斎藤 そうですね。それで特報(予告篇の一種)というので一万円、「東京物語」本篇の為の作曲料というので六万円もらいました。最初だからよく覚えています。全部ひっくるめても八万円程でしたが、それでもラジオの学校放送の二十倍ですね。でもちょとガッカリしたんですよ、本当は十万か十五万くらいはもらえるんじゃないかって思ってましたからね。
落合 仕事にとりかかる前にギャラはいくらっていうちゃんとした話がなくて始めてしまうことってあるんですよね、この世界は。
斎藤 そうなんですよ。作曲だとか何だとかの仕事は、頼むほうがお金の額をきめるんですよね。絵かきさんだったら、一号はいくら、二号はいくらって売り手の自分がきめるでしょ、作曲家の場合は「ハイ、ギャラです」と言われていただいて開けてみてはじめて判るわけです(笑)
落合 それで二本目は?
斎藤 「月は上りぬ」っていう田中絹代さんが監督なさった作品でした。
落合 日活の?
斎藤 そう、あれは小津さんが脚本を書いてね。
落合 ちょっと話は戻りますが、小津さんとお会いになって、あの方は自分の映画音楽の考え方はこうだっておっしゃるわけですか?
斎藤 小津さんがですか?僕にですか?
落合 ええ、はじめて先生にお会いになってですよ、君がやるのかねてなことになって、僕はこう考えてるんだからなんてことをおっしゃるんですか?
斎藤 いいえ、そんなこと全然言いませんよ。
落合 何もおっしゃらない?
斎藤 ええ、そのかわりはじめて会って、台本ができたから打ち合わせに来てくれとスタッフの方から連絡がありましてね。
落合 大船ですね、まさか鎌倉(自宅)まで来いと言うのじゃないでしょうね(笑)
斎藤 鎌倉も何回も行きましたが、その時は大船でした。それでここのシーンとここに音楽を入れましょうと言われたんです。後でびっくりしましたんですが、ほんとに録音をとる時、台本の段階でここに音楽を入れてくれと指定なさった所とまったく違わないんですよね。
落合 へエー、そうするとたとえばドアが閉まったシーンの後から音楽が入るとすると、ドアの閉まった音がQ(音楽入りの合図)ですよってな風にこまかく言われるんですか?
斎藤 いえ、そういうこまかいことは僕には言いません。
落合 指揮者に言うんですね。
斎藤 そうです。ですから僕には台本に赤線を入れて、ここからここまで音楽といった風に言うわけです。そしたらその通りなんです本番でも。長さはオールラッシュ(現像したフイルムを見ること)の時でないと判りませんが、それ以前にだいたいの見当はつきますよね
落合 じゃあ台本の段階で曲は一応つくっておかれるわけですね。
斎藤 そうです。この頃だとダビング(録音)の時に13秒と判っていれば、それだけの音を時間どうりに入れますよね。しかし当時は絵を見ながら指揮者が音楽を入れていったんですよ。そしてその前に試奏会というのがあるんです。
落合 それは監督さんだけが聴くんですか?
斎藤 監督とスタッフみんな聴きますね。それを称してみんな御前演奏って言うんですがね。
落合 へエー、小津天皇ですね(笑)それで斎藤さんは小津さんの作品ばかりを手がけられたのですか?
斎藤 いえ、やりましたよ他の方のも、今度は小津さんの推薦で。小津さんの助監督をなさっていた斎藤耕一さんはすぐに監督になられましたが、その方の映画音楽。それから、あと亡くなった方では阿部豊さん。
落合 僕、あの方好きでね、「細雪」なんて大好きだった。「大阪の風」ってのもありましたね。
斎藤 それ、私がやったんです。あの方はうるさくってね。
落合 でも映画監督としてはすてきでしたね、僕も尊敬しています。
斎藤 それから後は滝沢英輔さん。
落合 あゝ、「処刑前夜」の?
斎藤 そうです。けど僕がやったのは「あじさいの歌」だとか「どじょっこの歌」だとか「さよならの季節」だとかね。それから西河克巳さんの作品ね、これは一本だけなんですけど「孤独の人」。
落合 皇太子の関係のお話でしたっけね、そうなんですか「太陽の季節」の頃ですね。
斎藤 そうです。
落合 それで小津さんは「東京物語」の後しばらくお撮りにならなくて、三十一年頃「早春」がありましたでしょ。あれはどうしてか知りませんが、高校が観せたんですね、学校の講堂でね、その時の一番の印象が音楽なんですけど、悲しいところにくると弾んだ明るい曲が聞こえてくるんですよね。
斎藤 あれ、「サ・セ・パリ」と「バレンシア」が小津さんが好きでね、こんなの創れっておっしゃるんで二つの感じを合わせて書いたんです。「サセレシア」っていう題でね、これは小津さんがつけたんですが、テンポがよくて明るいでしょ?
落合 そうなんです。でもそれがかえって悲しいんですよね。僕も演出したりする時は悲しい時にメジャーの曲を使ってしまう。それはよく考えたら、小津さんの音楽の考え方に似ているなって気がしますね。
斎藤 そうですね、よく考えると私も短調の曲は一曲も創っていませんね。曲の中では変化をつける為にありますがね。
落合 「浮草」も大変愛着があって僕の作家塾の教材になってます。音楽の出し方、雨のシーンがなぜあるのか、あの一作を丹念に観れば他のことをやたらと勉強しなくてもいい。あの映画はバイブルだ。
斎藤 だれかが小津さんの映画はいつも天気の良いところばかり撮影してるのに、「浮草」だけ雨降りのシーンがあったって‥‥。
落合 印象的でした。
斎藤 あれは雨降りの時でないと思う。
落合 セットでしょうね。滝のように降りましたもの。
斎藤 小津さんは、僕の映画にはやりが降ろうと雨が降ろうと、心の中はいい天気なんだ。青空なんだという感じが欲しいんだとおっしゃるんですよね。
落合 それが、たとえお葬式のシーンでも明るく弾んだサセレシアがかすかに流れてくる。演技指導も同じだったと思うんですが悲しい時に泣かせないというか非常に高級だなあと思うんですよね。
斎藤 「東京物語」の時、私はまだ何も知らないですからね、わびしーい話の場面にそういう感じの音楽をつけたんですよ。東山千栄子さんが原節子さんのアパートで一晩泊まるシーンですが、そこへバイオリンのソロを入れたのです。小津さん気に入らなかったみたいでね、小津さんの音楽の使い方は普通の監督さんと違って心の中をそのまま音に出すのは、合いすぎていてやりすぎだといつも言っていました。小津さんは、「斎藤くん、あすこのとこちょっとね、よくできすきちゃうんだ」と言うんです。
落合 音楽が合いすぎちゃう。
斎藤 そう。それから僕はああいう使い方しなくなりましたのね。でも小津さんは思いやりのある人ですから、その音楽が気に入らなくても決してカットはしないんです。そのかわり小さく小さくして入れるんです。「もう少しちいさく、ちいさく」って聴こえるか聴こえないかでね、だから指揮者の吉沢さんも「斎藤くん、せっかく創ったのにあんな小さい音にされちゃって悪いね」なんて気にしてましたけどね。
落合 だいたい小津さんの映画は音楽が小さいでしょ。
斎藤 小さいですね。
落合 斎藤さんはどう思われてるんでしょう。僕はそれが映画音楽じゃないかなと思うんです。ミュージカルは別にして、音楽も俳優の一人であるという考え方があるのではないか、音楽に限らず照明の工夫だとかもあまりむきだしで出てこない。木下さんは音楽が前面に出てくる、素直ですよね。小津さんはわざと引っこめてしまう。ところが帰りにはそれを口づさんで帰れるのね、メロディーを。
斎藤 なるほどね。
落合 「東京物語」では、いつもと違う音楽だと思いましたね。尾道から東京の話に移る時に東京の工場地のエントツから煙が出てるシーンで、音楽が大変ダイナミックに入りましたね。そこが今までと違うと思いました。
斎藤 僕は「東京物語」がはじめての作品ですから、小津さんはめずらしくて新鮮味があったんでしょうね。
落合 ご自分でおっしゃってましたが、「メロドラマの要素を自分の作品に入れたくて東京物語を創った」っていうからいつもよりドラマチックなんでしょうね、だからあの音楽でよかったんでしょうね。
斎藤 僕は大先生だと聞いていたし、緊張して創りましたが、僕自身放送劇なんかやってましたので、ことさら目新らしくやらない。「早春」の時に「サセレシア」を一曲創った為に以後はあれ式の音楽になっちゃったわけです。「東京暮色」では「サセレシア」だけでいいからねという注文で、僕は楽でした。
落合 それでも創作料はいただけるんですか?
斎藤 そりゃそうですよ、僕の作品ですから。
落合 「彼岸花」か何かの中で僕は音楽で泣きそうになったシーンがありました。同窓会のシーンで、誰かが 青葉しげれる桜井のーとアカペラ(無伴奏)で歌いはじめ皆がついてきて、歌だけから音楽にのりうつるところで涙がワァーっと出てきたんですね。不思議な感動でしたね。あれはどうやってやったんですか。
斎藤 あれは撮影で歌つ時にキー(音の高さ)をアコーディオンの村上さんというおばちゃんがそばにくっついてて弾いて、俳優さんたちに高さを覚えさせてから、その通り撮影で歌っておいて、私は村上さんから高さの報告を受けて後半の音楽になる部分を書くんです。加東大介さんが出てた「秋刀魚の味」で「軍艦マーチ」を歌うシーンと同じで、映画では酒場のレコードに合わせて加東さんが歌ってますけど、撮影中はレコードなんかかけずにレコードのテンポを記憶しておいて歌う人のキーを合わせてアコーディオンを弾く。それを覚えた加東さんが本番で無伴奏で歌う。それにあとでレコードをかぶせるんです。大変めんどくさいことをやるんです。出来上りは何てことない場面でも大変手間をかけてやるわけです。手間かけりゃいいと思ってんですね、あの人は(笑)映像だって非のうちどころがないっていうか、フイルムを一枚一枚ひきのばしても額にかざれるような撮り方でしたね。
落合 小津さんの作品は、日本の家屋の中、つまりアーチのある部屋があるわけではなくて、正方形と長方形で構成された典型的な日本家屋の中での物語ですわね、それをキャメラを動かさないで撮る。その中に洋楽が入ってくるんですよね、たとえばお琴なんかを使わないのに、あの映像の中にピタッと入ってくるというのはどういうことかなと思うんです。他の監督さんの日本の家の中の話にもいい洋楽を使ったのありますけど小津さんのはビターッ!でしたね。何か作曲上の秘密があるんですか?
斎藤 それは落合さんほど考えたり悩んだりしたことありませんけど、小津さんと僕の相性が合ったんでしょうわりにスラスラ書けましたね。
落合 お好きですか?ああいう撮り方。
斎藤 ええ、好きですね。
落合 やはりあれですね、相性というか、好きな方と一緒にずっとやっていけたということは音楽家としてもすばらしいことですわね。
斎藤 そうです、幸運だと思いますね。
落合 いい人生だなと僕はうらやましくて‥‥。
斎藤 ほんとにね。小津さんに出会った時は話もしたことがなくてね、たとえば今だったらお見合い結婚をする時にでも話くらいはしますでしょ。でももっと昔は顔も見たことがない二人が結婚するということがありましたよね、それでも幸せに暮らしている夫婦、ちょうどあんななんですよね。
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